アートについて-もうここ数十年は聞いている言葉-

もうここ数十年は聞いている

『サイトスペシフィック』なものを

という表現(1990年代から日本ではよく聞くようになっていった。)

これはペインティングだけでなく立体やインスタレーションの存在性とも矛盾しているんじゃないかと考えることがある。
(※『サイトスペシフィック』はその場所でしかできない表現というような意味合いで使われる。)

作者の意識を表出化させたものが作品となって存在する。
副次的なその物理的な可搬性と視覚による伝達手段の再評価。
そこに今日ではライブカメラによる通信で瞬時にデジタルデバイスでモニターすることもできてしまう。
質感さえも。


”サイトスペシフィック”は崇高なもの
という価値観は時代遅れとなっている。

文化やテクノロジーが物流や通信によって世界で均質化していく中で、
その土地でしかできない表現というのは
歴史や経済、因習的なものを過度に意識しすぎて縛られすぎではないかとかんがえてしまうことがある。

普段見えているものを本当の姿だとは認めずに。
川の中にごくまれに埋もれている砂金の一粒を本当の価値のようにしてしまっているのではないかと。
そこにある本当は、川に流れる水であってそこに住む水棲生物らの存在が蚊帳の外になってしまっているような気がしてしまう。
今はそういう作品があふれているように思う。


ロバートスミッソンの川べりに作った作品が出た時代と
現代では明らかに環境が変化しているのに、
今、サイトスペシフィックなものを叫ぶのはなぜなのだろう。

元々は
宮殿での装飾品で埋め尽くされた空間に絵画が所狭しと並べられた場所から始まり、
旧来の価値観からの脱却という形で、
ホワイトキューブという白い壁で覆われた無機質な空間の中で作品を表現するアートスペースが生まれた。
そこでは作品を構成する要素として、作品の独立性のために、そのまっさらな空間が求められたが、
次第にそれが自然ではない、本来アートは居住空間に飾ってこそ意味があるのに、という考え方が生じる、
そのころはもうホワイトキューブはただのオークション会場になってしまっていた。


その経緯から、アートピースについてもその土地、場所でしか表現できないものをという
”サイトスペシフィック”という考え方が生まれてきた。というのがまあ強引ですけど私の見解ですね。

異邦人が観察者として、その場所の資源を掘り起こすというムーブメントが一時期とてももてはやされた。

ただ、ランドアートやリサーチして作品化するドキュメント系の作品以外のものにまで
サイトスペシフィックを求めるのは、もう無理ですね。我田引水といいますか、ちょっと強引さを感じてしまう。

どの場所においても作品として存在できる。
それぞれの場所によって意味が読み替えできる。
というほうに
今の私は興味があります。

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